天才?!ダンスと名付けて月一回だけのダンス講座を行っていましたが、「ダンス」という用語がそうさせるのか、強迫観念に満ちた不自由な踊り、または、ただのでたらめ・・・・・のどちらか両極端なものは露呈するけれど、ぽれぽれの仲間のような、きゃべつの仲間のような「自分」というものをそのまま受け止めて踊る姿をなかなか見られません。
昨年からは天才?!ダンスを終了し、ダンスワークとしてDEEP MOVEMENTとボーンメソッドを駆使してやってきました。
あの手この手と変えるのは、ぽれぽれやきゃべつの仲間の踊りや、キューバで見た踊りを、フツーに見たいからです。
段階は踏んだほうが良い場合と、飛び越えて、逆側からいったほうが良い場合とがあるのですが、
段階を踏むというのは、基礎訓練と自主稽古とレッスンを同じくらいの比重で行うことだと思います。
一方、逆側からというのは、ぽれぽれやきゃべつの仲間のように無防備で奔放に踊ることです。
ただし!彼達は決してでたらめには踊っていません。
先ずマネがスゴイ。ということは・・・・・・見てる!
ホント見てる!思考が邪魔せずとにかく見てる(^-^;)
ただ見てる。それも短い時間に素早く集中してる。思考が邪魔しないから、考えずに見てる。これは悟りの境地ですよね。
で、自分の持てるものを使って素早くマネをする。条件反射が速い!
で、忘れない。
で、パターン化しない。
で、アイデンティティがあって人と同じものはない。
で、上達もする。
理想じゃん。
段階を踏むというプロセスを選ぶより早いと思います。
段階を踏んだほうが良いのは、専門家(プロ)になる場合かな。
ただし、逆側からもできるようにしておいた方がいざって時?はプロも役立ちます。
専門家(つまりこの場合は踊り手)の場合、スランプとかもありますからね。24時間そのことだけに関わっているのですから。
そんな時、逆転の発想が役に立つ。
創作活動でもそうですね。
行き詰ったら、観念で無理やり創らないで、さっさと切り替えて、とんでもないことをやってみる。
そうすると、表出したかったことがすんなりできたりする。もちろん「何をしたい」のか「どうしたいのか」がないと、アレですけど。
やはり、頭でっかちは良くないです。
なぜ、頭でっかちにしておいた方が安心するのかが、良くわからないです。
頭状態が続くとワタシは不安になります。
できなきゃ意味ないから。ダンスは。
だからイメージや妄想もほどほどにしておかないとただのドリームになってしまいます。フィーリングなんてもっとコワイのだ(笑)
身体は極めて現実的です。
なのに、神秘を表現できる♪
だから好きなんですね~。ドライです。
言葉に逃げることもない。
踊り手だから、言語を頼りにできない。
だから、ぽれぽれの仲間たちと波長が合うのかな~。
最近は重身(重度心身障碍児・・・肢体不自由と知的障がいの重複)の仲間とも接する機会が増えているのだけど、重身の仲間は、ある意味でもっと身体的です。
身体が最重度で動かないから身体しか表現手段がないので、とても身体的なんです。
アタシたちは、話せるし、動ける・・・・のに身体的じゃないことが多いです。
そういうことなの?これはなんとなく納得できないな~。。。
なので、ダンスワークをもっとシンプルに身体一本に切り替えてみようと思いました。
ホントは、DEEP MOVEMENTこそ、身体一本の極限なんだけど、どう伝えても観念的になってしまうのだ。目に見えないからだろうか・・・見ようと思えば見えるけど。
現実的に生きるなら身体しかないのだけど。
学童のみんなじゃないけど「踊りた~い」
が見たい。
まずは、ダンスワークから切り替えてみる。
ワタシはみなさんの「ダンス」が見たいんだ!
今晩は、ちょっと開いて「ダンスワーク」読ませていただきました。ダンスの専門家としての「葛藤」というか「究める道」といったらよいのか、そんなことが伝わってきました。世界が違うかもしれませんが、保育園や幼稚園に行って、「楽しく英語で遊ぼう」という時間があり、やさしい英語の歌を手足を動かしながら教えています。そんな時、説明の日本語は必要なく、何度も何度も同じ動作をまねしてもらう。するとすぐに覚えてくれる。英語のリズムと身体の動きが合ってくる。先生方(保育士)よりも先に園児たちのほうが上手く出来てしまう。ちょっと似てるかなと思って、コメントにしてみました。
まさに!そうですね☆彡
いつもありがとうございます。
ルピナスさんも買いました♪日本語版ですが(^^ゞ