LATINな身体

昨日のシアターΧIDTFフェスティバルの楽日は、楽日に相応しいすばらしい公演ばかりで、胸をなでおろした。

と同時に、やっと20年間どうしたものかと思いあぐねていたことの〈道〉が見えた気がした。

身体の道。創造の道。表現者としてのひびきみかの道。

 

きょうは、運良く自主稽古の日。

 

しかも以前より、今日はLATINの稽古をしようとスケジュールを組んでいたから、これもまた先にわかっていた未来予想図だったってことになる。

 

楽日の職人たちの技は圧巻だった。技だけではなく存在も。

だけど、それは技をずっと磨き続けてきたからこその存在だとわかった。

 

年齢だけではなく、同じことを何度も繰り返してきた者だけが持つ〈存在〉がしっかり見れた。

まるでアスリートの話だね。

 

舞台上では、その存在は、芸術性、創造性、作品性よりも明らかだった。

きっとそれぞれが短いパフォーマンスだったからだと思う。

 

通常は作品性にばかり目が行ってしまうところが、時間が短いために作品よりも身体に目が行くようになっていた。

もともと身体しか見ないワタシだけど、時に身体が欠落したものは見るに耐えないにしても、作品性がクローズアップしていると、身体のゆるさはごまかされないにしても、「これでもいいのか。」と思ってしまうことがあったから。

 

ワタシが何より大切にしていることは重要ではないのかと。身体の欠落(身体能力のことではありません)と評価は必ずしも一致していなかった。

 

しかし、やっぱり違ってましたよ。やはり身体です。〈そのこと〉に関わっている時間が長ければ長いほど、しかもシンプルに関わっていることが長ければ長いほど〈存在」が光っていた。

観念や思いなんて簡単に吹き飛ばしてしまう、表現者の〈身体そのものの〉の歴史だ。

 

 

自分はどうだろうと考える。

ワタシの場合は、LATINな身体だ。

これは巷で言われている、インターナショナルスタイル(競技ダンス)の身体でもキューバで学んだフオルクローリコのことでも、SALSAのような娯楽のダンスのことでもない。

身体というものは、スタイル(ジャンル)のことではないのだ。

 

〈LATINな身体〉のこと。

それを確かめるべくきょうの自主稽古はあらかじめ用意されていたようだ。

 

 

久しぶりにダンスシューズのヒールをはいて踊ってみた。

このところ、裸足の公演が多かったし、公演でヒールを履くときは大抵ダンスシューズではなく、普通のサンダルのヒール(ダンスシューズより2~3センチ高い10センチ以上の)で踊っていたからだ。

 

久しぶりに履いたヒールのダンスシューズは、踊りやすかった~(笑)

裸足のようで、帰ってきたぞって感じがした。

 

このところ裸足で公演することが多かったので、だいぶ裸足にもなれて来ていたから(以前は裸足だとバランス悪くて踊れなかった)、ヒールで踊れなくなっているんじゃないかと心配してた。

 

まったく問題なかった。そこに自らの歴史を感じた。

 

で、いろいろ踊ってみた。

とても好きな音楽が入っているCDをかけっぱなしにして、LATINに徹して踊ってみた。

 

ここが説明が難しいところなんだけど、

決して○○ダンスとか、種目とか、そういう意味のLATINではないもの、

かといって、自由のふりしたでたらめ?ではなく、音楽に反応してLATINな身体が出てきた。

 

それは、いわゆるジャンルで名前をつけられるLATINダンスではなくて、それでいて創作?っていうあいまいなものではなく・・・・

 

あ~所詮ワタシは、ノンジャンルなのね~と思ったけど、LATINであることは確かだった。

 

ずっとずっとどうにかしなくちゃと思いながらも、二分化していた自分の身体がひとつになったような気がした。

 

作品や公演で言えば、舞踏的なシュールな作品または動き、とLATINショーやパフォーマンスをあえて分けていたからね。

対外的にはこの方が説明しやすかったし、カテゴライズが好きな日本人には説明しやすかったのだけど、

なんかなんかなんかがなんかでなんかだったんだよね~。

作品の途中にLATINを入れる?的なアドバイスを頂くことがあるけれど、LATINっていってもよくわからなかったし、動くとか動かないとかだと余計わからなくなる。

動いたからってLATINではないから。

 

だから、ずっと二分化して、シュールな作品とLATINな作品は混ざらない用にしてきたけど、それはやはり何かが足りない気がした。

単独ではなく、かといってそれっぽい?フォルムを引用するのではなく、自分の身体にしみこんでいる・・・・というよりは訓練でしみこませたLATINな身体なんだ。

 

可視化と潜在的なものとの間くらいのグラデーションで使いこなせれば、LATINを表面的に認知している人でも、感じ取れることができるかもしれない。

ワタシは、静の作品(舞踏など)でもLATINな身体だったのだけど、見えなすぎて誤解を生んでいた。

だから、「動くのが見たい」とか「こんどはLATINがみたい」とか言われてしまうんだ。

二分化して、今度のは舞踏です。今度のはLATINです。静です。動です。といっても、ワタシ自身はひとつだたから分身を踊り分けているような気がして、可視化できない自分が腹立たしかった。

 

昨日キャリアのある表現者の〈存在〉を見て、ちょっとわかった気がした。

 

さあてやっとこのことに時間を費やす時がきたんだな!

 

まずは、8月から月一路地テアトロで公演するひびきみかマテリアルダンス『リアリティ・マイノリティ・パーソナリティ』完全リニューアル版でひとつひとつ見つけていこうと思う。

どうぞお立会いください!

 

まもなく告知します!

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