「この世には男と女しかいないんだから」
あー。。。。よく聞くステレオタイプの言葉で、まったくロマンを感じません。
ええ。確かにそうかもしれません。
恋愛にしてもなんにしてもその程度の理由なんだったら、わたくしは退屈極まりないような気がしますが。
数日あきましたが、男と女の話その3。
その1その2までのお話は、もう何度もブログやらレクチャーやらレッスンやらで話していますが、
この先にいつも進めないんです。。
もし書き続けることができたなら、一冊の本が生まれるくらいネタ?がありますが、
わたくしが飽きてしまうのですね。たいてい。
このテーマに。
しかしよーく周りを見てみると、ひとびとはこのこと(男と女)のことで生きているのですね。
大事なのかもしれません。
わたしは、恋や愛に興味がないのではありません。もちろん男性に興味がないのでもありません。
それを取り巻く魑魅魍魎な想像力のない、情念のようなものに辟易しちゃうのです。
しかも、踊り手って・・・・まして女の踊り手・・・しかもさびしげな?一人の中年女・・・・ってかっこうのエサになるのですよ。
情念を持っている人は、わたしのことを情念女だと思う。
差別意識の高い人は、独り身の中年女を嘲り、優越感にひたる。
あ~幸せじゃないのね。世の女たちは。
と、そういういじめにあったときに思います。
もちろん心外だし、傷つきますよ。
でも、あまりに低俗でそこに巻き込まれたら、表現者ではいられませんからね。
天との約束がありますから(かぐや姫か。。。)
ナーンテね。
追求し過ぎたのですかね。。。
なにごとも程々がいいのでしょうか???????
いえいえ、表現者はそれではいけませんよ。わたしは表現者はアスリートでもあると思っています。
他に道がないのですからね。
さて、本題
〈存在感〉とか
競技選手のときに何百人のなかで目立なくてはならない(うまくても目立たない人もいる)ので、〈存在感〉とかっていうのも研究しました(研究好き)
経緯は省略しますが、
やっぱ存在感って〈軸〉なんです。
〈軸〉って、言葉が独り歩きしているあの軸ではなく、ほんとの意味での〈軸〉です。
ブレないもの(頑固とは違う)
どんなに自信ありそげな態度をしても、威張り腐っても、
〈存在感〉は出ません。
〈軸〉は身体です。つまり〈存在感〉は身体でしか出せないんです。
あれ?なんだっけ?
おとこと女の話でした。。。。。
そうそうこうやって、このあたりから普遍を超えて真理に向かうので、言葉にしづらくなるんです。
だから、結局はテクニックです。
の話で、いつも伝達は終わってしまう。
わたしが「おとこと女」について、もっとも興味があるのは、表現者としてそれを表現する場合の立ち位置なんです!
それが、競技ダンスだろうが、LATINだろうが、舞踏だろうが・・・舞台芸術だろうが です。
表現者が、観客が日常的に持っている「情念」を舞台上で超えられなかったら・・・・・・・
非常に卑猥で存在感のない存在になってしまう。。。
表現者は
普遍的で、あたかも日常にあるような〈情念〉を
それこそ かぶいて!!!
表出することこそが使命なのでは?と思っている。
表現者に日常はいらないんだと思う。しかし、見ていなくてはならないけど、知っていなくてはならないけど、
舞台上にはいらない。
好き嫌いを超えて、存在しなくては。
自分が見ていて恥ずかしくなるような ものは・・・・
テクニック不足は言うまでもないけど、
表現者が「日常の情念」の壁を越えていないからだと思う。
つまり「身体の訓練」が足りなく「感情」に左右されている。感情にイニシアチブを握られている。
そして、「感情」というものは、じつは「思考」であることがほとんどで、〈真の感情〉というものをなかなかつかんでいないことが多い。
それは・・・・思考が巧みに!!感情のふりをしているからです~~~~~~~~!!!!
(↑ちょっと気合を入れてみました。。。急に手がスピードアップした。。。)
アマチュアはそれでいいと思うのです。発表会ならそれでいい。しかし、表現者はそれでは・・・・
お金払って見に来てくれる人に申し訳なくないかねかねかねかね・・・
ここから先は、またあとで。
次回は、わたしがなぜ〈舞踏家〉になりたいと思ったのか。
なぜ〈舞踏〉に魅せられたのか。
そして・・・・わたしがなぜ〈感情論〉が嫌いなのか!
にふれたいと思います。
その時に・・・今回の男と女シリーズで、一番触れたかったことになるでしょう。
本にできたら、もっとここでは書けないことも書けるのですが(笑)
ぎりぎりのところで綴っていきたいと思っています。
次回をお楽しみに☆
個人セッション(ご相談)はいくらでもお受けします(爆)
男と女↓ご参考までに
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