このところ、《反省》という行為(言葉ではなく)について良く考える。
自分にとって反省というものは、けっして悪いことをしたという前提ではない。だからネガティブなイメージはなく、
むしろ内観とあまり変わらないワクワクしたものなんだ。
そして、反省をすることによって出て来るのは、自分自身の判断基準や選択の仕方やプライオリティを客観的に見てとることに役立っている。
「こめんなさい」とか、「悪いと思っています」という言葉は、別に反省ではなく、ただのあいさつ?みたいな、検証をまったくしていない・・・なんだろう・・・よくわからないなあ。必要なのかな。言葉の上だけの謝りや感謝って。
少なくともわたしは、むしろあまり挨拶をしないほうなので、それが良いとは思っていないけど、なんというか言葉は身体であって、ただのあいさつや社交辞令や、ああ・・・・よくわからないな。
そういう風に言葉をあまり発さないので、他者が発した言葉とのギャップがあるようだ。
巷では言葉にあまり意味を持っていない発言も多いようだ。こちらは、言葉と創造は一体なのでそういうことはあまり経験がないけれど。
言葉が発せなくて、体の不調や心の不調を伝えられない仲間とばかり過ごしているので、言葉を言葉だけで使っていることにどうも抵抗がある。
他者の物差しでみると混乱してくるな。
自分のことに戻せば、話は分かりやすいので、戻すことにする。わたしにとっての反省は、自分のキャパシティや踊りで言えば技術や創作で言えば想像力や創造力をアップするための自主稽古みたいなものなので、なにが待ち受けているのか、楽しみな作業でもある。自問自答によって、生まれるものは大きい。
それは作品だったり、技術だったり、発想だったり、とめどない。
悪いと思っているということの意味ってなんだろうと、このところ考え込んでしまう。「本当に」とか。ただの丁寧語なのだろうか。
そういった社交的な言葉を発さなくても分かり合える友人や知人に恵まれているからなおさら、引っかかってしまうのだろうか。
やはり、引きこもっていた方がよさそうだ。こちらの世界は、いたって平和で創造に満ちているのだから。
悪いと思うとか必要なんだろうか。思ったうえでの行動のほうが大切なような気がする。思いを行動に移して初めて思うということが成就されるのではないだろうか。
思っていることが重要で、行動は重要じゃない・・・つまり身体の欠落が目に付く昨今。
世の中のことをなんだかおせっかいに心配してしまう。
創作や踊り(自分は踊り手なので)に関してだけなのだろうか。
失敗から学ぶものはおおきい。むしろ失敗は成功のもと・・・あれ?・・誰もが知っていることわざだ。もはや誰も見向きもしていないほどの口だけ用語になっているようで、残念だな~。トライ&エラーのが今風なのかな。
まあ何でもよいわ。
何かに反発するときも、安易にそうしたことは無いな。
自分が勝手に誰かに自分のことを否定されたと感じてしまった時も、一瞬悲しくなるけど、どういうことなのかなと紐解いてみるのが常だ。
踊りに置き換えると、わかりやすいのだけど、発見っというのは失敗に近いところにちりばめられているので、成果や評価のためになにかをやってしまったら、それこそ芯のない、哲学どころか趣旨のない、行き当たりばったりの行動になってしまう。
踊りてなので、いちいち考えてから動くということはしないけれど、動いたことに関しては、しっかり検証する。
そういえば評価のために評価されるような踊りを踊ることを第一にしている風潮があるような話を最近聞いたけど、その評価が、たまたま自分の質や思想と一緒ならそれはそれでアリだと思うのだけど、評価のためだけに行動していたら、支離滅裂になってしまうだろうな~。病むだろうな~。そんなこんなで、なんとなくみんな病んでいるのだろうか。。。
人生は短い。自分のままで向上をし続けたい。
個性ってなんだろう。個ってなんだろう。というところにいつも行きついてしまうけど、
言葉の戦争だけはやだな。ああいったこういったというのは、とかく女性に多いけどね。
おんなが不幸な社会もまた不幸なんだろうと、妙に俯瞰してみてしまう今日この頃。
ちょっと暗かったかな(^^;)
わたしはお蔭さまで充実しています。
いつも誠実でいたい。自分の行動言動には、責任を持ちたいです。失敗しても(^^)v
そういえばアスリート時代も負けた時は言うまでもないけど、勝った時も反省ばかりしていたな。
お蔭でたくさんの発見があって、いま、創造に生きている♪
人間なんて愚かなものよ~♪
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