子ども天才ダンスは習い事ではないダンスをご希望される口コミのみでやっています。
子どもは皆天才。
社会が凡人に育ててしまう前にダンスを通してワタクシが子どもの天才度を子ども自身が潜在的に実感できるように仕向けてる?っていうか身体記憶としてうっすらと残るんじゃないかと思っています。
子どもたちに自然と芯ができて来る様が興味深いな~。強要されてとか教えられてとかじゃなくてね。
自然の力、運動生理ってのはスゴイのよ。それに気づかず、大人がヘンなことを教えると凡人で、多様性のない人間になってしまう。っていうか、大人はいつ芯を失ったのかな????
いつも思うけど小さければ小さいほど(若ければという意味)英雄性がある。1歳の子の英雄性は何度もみたことがある。2歳も3歳もかろうじてある。瀬戸際の4歳だって英雄性を保てている子もいる。
そして、社会へ出始めるころ(小学校とか)、少しずつ英雄性を失っていくのも学童を通してみている。失わない子は社会性がないのだろうか。いいや。むしろ逆だな。
そういえば、大人で英雄性があるのは芸術家ばかりだな。。しかも、社会性がないだの勝手だの変わり者だの周囲から言われちゃってる芸術家のみだ。
狂気の話もそうだけど、社会は幻想を抱きつづけているのではないか??アタシら表現者はふつーだよ。人間っぽいよ。(ぽいっておかしいが(^^ゞ)
ステレオのほうが狂気だ!自分を見失えるなんて大変なことだ。言動にアイデンティティがなく、誰も彼も同じ言葉を発するなんて狂気の沙汰だ。
社会では人とみんな同じ意見をもっているとか意見も考えもないモノのほうが普通なのかい?名前も顔も環境も違うのに、同じようなことして同じような言葉を使い、同じような行動をする方が、狂気だぞ~。
障がい者もなにもかも、そんなステレオ大人が自分の概念で管理しやすいように分別されているだけで、むしろ病気をひどくしてしまう場合だってあるようだ。
わたしはステレオだけは、どうも理解できない。またそこに気がつかないくらい、自分に目を向けないまたは向けることをしないでいられるのは、どうしてなんだ?時間をどのように使っているのだろう。一人の時間や本を読む時間や、葛藤したり考えたりする時間をたっぷりとっているのだろうか。
時間がないというのは、そういうことばかりをしていて時間がないというのならわかるんだけどね。
外側ばかりに目を向けて内側を見る時間がないというのも、錯覚ではないだろうか。
あなたは誰なんだ?あなたはあなた。あなたの身体はあなたの身体。
身体と言えば、書かなくてはと思っていることがあるのだけど、なんだか必要なのかなとおもってはかどらなくなった。
心と身体の関係の話。身体から心を見ていかないと、心との関係は読み取れない。心のほうからは見えずらい。なぜなら、思考がだますからね~。
面倒くさいからこの話はやめておく。
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