な~んとなく、わかってきたぞ。わかりたくないけど知っておかなくてはならないかもだしね。表現者として。
身体表現に徹していると、意味はあとからついてくることに気づく。
意味から考えて創作しても意味通りに身体は動かない。
だからといって、即興は身体のクセの枷のなかでデタラメや、やりやすい動き、または観念的に奇を衒う方向に行き安いのであまり好きではない。
決まりごとの多い即興は好きだ。LATIN音楽のアドリブパートみたいなヤツ。LATINダンスにもある。
物凄い決まりごとのなかで、まるで決まりごとが無いように踊る即興なら、わからなくはない。フリーなのに、ルールを極めているってやつね。テクニックが必要だ。
まあ、いずれにしても、意味から身体は動かない。
物語ってのは意味なのだろうか?
行動は意味なのだろうか。
たしかに、理由があって行動する。
日常は全部意味を携えて、理解して確認してから動いてるのだろうか。
身体が先じゃないのかい?
意味ってのは、自分の知ってる範囲や概念を超えられないんじゃないのかい?
その点、身体って、植物みたいに面白い発展をするんだよ。
たしかに、何かの法則には則っているだろうが。
んじゃ。生まれる前に意味をもって生まれて(魂的にはそうだとしても、ここでは思考としての意味)、意味をもって意味通り成長してきたのだろうか。
意味を理解しないと一歩も動けないって言ってた競技選手がいたけど、意味を教えても動けなかったよ。
意味は物語とか動機とかより、むしろテクニックとしてならある。
そして、テクニックとしての意味は、たしかにルーツから来ていたりする。
だけど、だからこそ、ルーツを知ってもテクニックを身につけないと意味を持った動きはできない。
一方、テクニックを身につけても、それをする意味(なぜテクニックを身につけたいのか)がないとただのHow toになる。
たしかに、情動のようなものが先に来て、それをたどっていった時に、いろんなシンクロが起きて意味が理解できたりするのだけど、それはまだ観念で身体はイコールになっていない。身体がイコールになっていないと、身体表現にはならない。
この時点で身体がイコールになっている天才もいる。キューバとか、ネイティブとか・・・・・・うらやましい身体。人間力の極み。
身体表現ってのは、踊りだけじゃなくて、芝居でも絵でも音楽でもなんでもだと思う。日々の暮らしも遊びも身体表現だ。
ただし、言葉を伴っている場合とそうでない場合は大きく違うんだということに気づいた。意味の意味が解り始めた。
つまり、意味を知りたがる人の意味がわかりはじめたということ。あまり知りたくなかったけど、理解はしておかなくてはね。
わたし達はどうしても、言葉を介して分かり合おうとする。身体のことでもだ。
だから、その時点で全く違う概念で会話が進んでいることが多い。レッスンだってそうだし。ディスカッションなんてそれの一番ヤバい例だし、政治家はそこを利用したり、そこだけ揚げ足取ったりしながら、身体性を欠落させて、言葉のみの闘いでごまかそうと(つまり、実践や実行を伴わない)時間を使う。見え見えだがね。
わたしには非常に退屈な時間だ。言葉のやり取りだけナンテ。でも結構ひとびとは好きなんだよね。そういう時間が。
わたしには、退屈な時間だ。
言葉と身体が離れている言葉なんて、時間の無駄にさえ感じる。
ポピュリズムはそういう表層を刺激して、内側へ意識が行かないように仕向けている。
そしていとも簡単にそれに引っかかる。
まさにいま創っているマヤコフスキーの詩の一節が覆いかぶさってくる。
「なんてこった。きみじゃないか。きみもあそこへ引かれてゆくのか!」
そういうことさね。ゲバラだってなんだって。そこに引かれていった、〈キミ〉たちに裏切られたようなもんさ。
しかし、意図的か流されているのかはずいぶんと違う気がする。
タイトルからそれてしまったけど、抽象身体表現をずっとやってきて、いま、少しだけ具象を自分表現法に取り込みたいという野望(いつものヤツ)がやってきた。
その途端!また〈意味〉攻撃にあったので、人々が意味に走る意味(笑)っていうか理由をちょっと感じ取れたのだ。
懐かしく感したのは、競技ダンスという具象表現(見ようによっては踊りだから抽象なんだけど・・・ベーシックステップなんて抽象としか思えない)、ラテンの場合(そういう意味ではスタンダードは抽象だよね)は、べタな表現もあるから具象としよう。
具象の世界からまたはワタシワタシの世界から、抽象表現(前衛舞踏)&媒体(ワタシを排除)に転向した当時、
目撃者から兎に角意味を聞かれた。
日本人は意味にあってる間違ってるという審判を下すのが好きらしく、
「こういう意味かと思ったのですがあってますか?」
感性に合ってる間違ってるがあったら、それこそステレオ化することを望んでいくしかないぞ。
コワイ評価主義だ。いまなお、そういう現場に出くわす時があるが。
抽象身体表現者になって20年、いまでは観客は、いつの間にか意味を知ることにこだわらなくなり、自分が見えたものをそのまま伝える〈感想〉に徹していくようになった。
これは表現者冥利に尽きる変化、変容だ。表現者と観客の関係。表現力と鑑賞力のせめぎ合い!醍醐味!
今年、これ以上の抽象はない?!(いまのところは)という身体表現「神話のとびら」スペシャルエディットを経て、
ワタクシは、ナント!具象の海に(100%ではないが)飛び込むことにした。具象と言っても踊りだからやはり抽象なんだけど、
人が言うにはいわゆる演劇的ってヤツのようだが、ワタクシが目指しているのは〈ブッフ〉であるから、抽象身体以上の身体性を必要とされる部分もある。
これは演劇的というよりも究極の身体表現に手を出してしまったというわけだ。。神話のとびらの身体が究極かと思っていたが、まだまだ先はあったのだ。
とはいえ、夢の一つでもあったし、素養?の一つでもあったのだけどね。
B級を極めることに徹していた数年前までの引きこもり時期の稽古場公演の数々は、シリアスに見えていた人もあり喜劇に見えていた人もありという作品ばかりだった。
それをやめたわけではないのだけど、若干いろいろなモノにサポートされてる感もあったし、まだまだ極めてなかったし、劇場で通用するようなところまでは、発展していなかった。路上ダンスにはもってこいの演目だったけど、わかりやすい音楽効果があったのも否めない。
身体一本でこの辺も極めてみたいと思っていた。
あああああまたタイトルから離れたので戻るけど、
ここ数年は、抽象身体を続けたお蔭で、観客も鑑賞力の筋トレになったようで、もうこちらが負けそうなくらいの集中力をぶつけてくるようになり、それはそれは幸せな空間を公演の度に味わえた。
そして、新たなる境地へ出発した。観客と共に・・・・と言いたかったが。。。
観客からは途端に!!!再び〈意味〉の嵐が!!!!
え~~~っ?!
どうしてなのさ。
でもわかった。
言葉が介在するからなんだ。
しかし!!
言葉が介在しても〈意味〉を最優先したくならないような身体を創り上げねばならないのだ。
これは、わたしのもう一つの仕事・・・言葉という介在がない仲間のみんなとのダンスを展開していることともつながる。
さて、スゴイことに手をつけちまったのは、自分の意思だが、
この公演に、仲間のみんなも何人か見に来てくれる。しかも、ちゃんとチケットを買ってくれるというスタンスがありがたい。
言葉が介在するこの公演で、言葉をまず言語として捉える、〈意味〉好きな方々と
全く言葉を知り得ず、心眼で見る仲間たち・・・・
今度は肌は見えないだろうが身体フェチの方々・・・・
筋肉好きの面々
文学者、演劇者etc.
どんなことになるのだろう。
表現の極みに向かって、歩み続けるのだ。
永遠に未完。されど進歩、進化、新歩、深化、変化、ヘンか?、変容、ヘンよ?
プレシャーに押しつぶされそう~~~~
目撃歓迎!お待ちしております。
「意味の意味」読ませて頂きました。感想を書くには、ちょっと時間が足りないので今晩は止めにしておきます。それにしてもだんだん6月24日が楽しみになってきました。タイトルが『人間』だから、『人間』を中心に読んで行きますが、この「意味の意味」を読んで、今まで見てきた「言葉」「言語」「せりふ」「会話」「独白」などが無かった舞踏、身体と音楽、そして物質、物語、光と影の世界、ソロと群舞、神話とルイス・キャロル、いろいろなシーンと今回の『人間』へのコネクションを私は見てみたいと思っています。
いのうえさま、この上なくありがたいです。これは抽象表現以上の難関です。しかし、具象表現において、誰も?気づいていなかったであろうある事がわかってきました。だからといって、どこまでそれを生かせるのか・・・わたし自身も楽しみであります。そして、もう一つの意味でこれがあたらな芸術への道となったらいいな~と思います。どの舞台でも緊張しプレッシャーに押しつぶされそうになりますが、今回も然り。ただ・・・なぜか?いのうえさまの書き込みを読んでから、わくわくしてきました!ありがとうございます。心よりお待ちしております!