裸足のダイヤカッター

こちらへの投稿がついつい遅れてしまってます。

みなさんと一緒で毎日いろいろなことがあり、一つ一つの検証を深くやっていくので、書ききれないのですよね。

fbには結構頻繁につぶやいちゃってますが(^^ゞ

グルソムヘテン劇団のことも書きたいのだけど、今日は、今度の日曜日の公演についてにしておきます。

 

8月にシアターΧのロビーで公演いたしました「事物の暴動」は、

マヤコフスキーの戯曲「悲劇 ウラジミール・マヤコフスキー」でした。

といいますのは、「悲劇 ウラジミール・マヤコフスキー」は、当時検問に通したときは「事物の暴動」(訳によっては「事物の氾濫」など)、もっと前は「鉄道」という題名だったようです。もちろんロシア語です。

それが、検問の時に何かの手違いで「悲劇 ウラジミール・マヤコフスキー」となってしまったというエピソードがあります。

または、「悲劇」 ウラジミール・マヤコフスキー と、作品名と作者名の記載が、混ざってしまったとか???

 

いずれにしても、公的に舞台になったのは、「悲劇 ウラジミール・マヤコフスキー」 としてだったようです。

当時「マヤコフスキー役は、マヤコフスキー自身が演じました。

 

この本はいずれ機会をみて読んでみてください。

マヤコ作品のなかで、ワタシが一番好きな作品です。

戯曲なのですが、詩集のように感じるほど、珠玉の言葉に溢れています。

しばらく続けて公演したい。きっとつど変わっていくと思う。変えるんじゃなくて、変わっていくと予感します。

身体性も強いしワタシにもってこいの作品です。

 

そして、何より、マヤコフスキーシリーズ・・・というか、詩人マヤコフスキーをテーマに作品を創る機会になってから、

ワタシのもう一つの創造目的・・・半分あきらめていた・・・に近づくことができました。

それは・・・「言葉」です。

 

ワタシは日ごろから、身体言語と観念言語(どう表現したらよいかわかりませんが、まあ、言葉の表層の意味だけの言語という意味です)の違いに悩まされ続けてきたからです。

少なく見積もっても25年くらいは、レッスンにおいてどういう言葉を使って伝えればいいかをほぼ毎日考え実行し続けてきたので、いまは、考えなくても、身体で起こっていることをまずは自分の身体言語に起こし、それをほぼ同時に観念言語に訳すこともできるようになりました。みなさんにレッスンをするときは、自分の身体言語を必要に応じて観念言語に置き換えて伝えています。

これは、かなりしんどいというか、むしろトレーニングになるのでなかなか自分にとっても役に立っているのですが、ワタシから発するものはほぼすべて身体言語なので、ついつい訳すのを忘れる時もあります。

そうすると、大抵はみなさんの観念言語とのギャップが生れ、実は全く伝わっていなかったとか真逆の意味で捉えられていたということが多々起こります。

 

本来言語は身体言語だったと思うのですよ。文字がなかったときもありましたしね。

まあ、そんなに太古まで遡らなくても、近代は言語においては観念が強まるばかりですよね。

メールとか。

もちろんワタシもメールもしますし、SNSもしますが、非常に残念に思うこと多いです。

いまの方々はメールでは弁達者だけど、実際面と向かっての対話になると話せない=言語を発せないという現象が多いように感じます。

そういう場合、ワタシは、メールでの言語を信用しません。観念だからです。

 

観念というのは思考とリンクしていることが多いようです。思考は感情のフリをして、あたかも自分の感情がそう言っているというウソ?を自分につくようです。面倒くさいですね。

精神というか心理をかなり研究したので、それなりに詳しいです。

そもそもアスリートは、肉体の競演でもありますが、精神戦(心理戦)でもあるので、競技選手時代に自分を掘り下げながらずっと研究してきたのです。

 

だから、ワタシは《身体》という言葉を使います。

身体身体というと、逆切れされることがなぜか多いのですが、ワタシの云う《身体》とは、肉体と精神・・・もっと厳密に言えば肉体と意識がきちんとリンクしているものをさしています。

一方《肉体》は、思考のフリした感情とリンクしていることが多く、つまり、自分の声のフリした自分の思考(知識や思い込みや洗脳されているもの)とリンクしているということです。

 

ワタシが、なぜか障がい者と呼ばれている方々と言葉?が通じるのかというと《身体》で接しているからです。

彼たちは、ワタシたちの言葉を理解していますがそれは意味で理解しているのではなく、言の波で理解しているのです。

一方ワタシたちは、言語の意味で理解しようとするから、彼たちの話す言葉?がわからないのです。

 

彼たちと縁をもって12年ほど経ちましたが、ワタシはそのことに、結構早いうちから気づいていました。

知的発達障がいの方々との出会いが先でしたが、そういうわけでアスリートだったワタシは、その頃から精神に興味があり、精神障がいの方々との出会いを待ち焦がれていました。

願いは叶う。

彼たちと7年ほど前に、機会を得て出会いました。

それより前にも、引きこもりと言われている方とも出会ってはいました。

ご家族に「みかさんが、来るときだけ、うちの子は部屋から出て来るの。」とよく言われたものです。

そんな時ワタシは、きっと自分と同じ波動を感じるのじゃないかなと思ったのです。

それは《身体》の波動です。

言葉は嘘をつきすぎますから。

ワタシも小さい時から人の発する言葉に疑問を持ち、一方で、詩や小説や文章としての言葉に魅力を感じていました。

 

なので、自分は言葉の無い表現者になって本望なのですが、「言葉も身体なんだぞ」という思い残したことがあったわけです。

もうとっくにあきらめてもいたのですが、ひょんなことで、詩人をテーマに公演する機会に恵まれたので、

あきらめるなという宇宙のメッセージだと理解しました。

先日宇宙の匙加減について書いたような気がしますが(書きましたよね???)、本当に絶妙なタイミングと方法で宇宙は知らせてきます。まるで予測不可能なやり方です。「そう来るか!」って感じです。

 

とにかく、今度の公演では《言葉》が身体であることの飽くなき挑戦の一歩・・・・厳密には二歩目・・・・を踏み出します。

 

一歩目は、6月の「マヤコフスキー 人間」でした。ご覧になった方はわかりますね?

そして、マヤコフスキーシリーズ3の「事物の暴動」では、逆に言葉は発しませんでしたが、《おしゃべりな身体》を表出しました。

 

このたびの「裸足のダイヤカッター」は、マヤコフスキー3作品の集大成ともいえますし、「事物の暴動」の発展形または回帰ともいえます。

 

そして、これが何と・・・・・次回書く予定のグルソムヘテン劇団のことと関係してくるのです!!!

 

まずは、路地テアトロ にてお待ちしております!

とはいえ!!!あと1名程度で定員です。

こちらは、8月のシアターΧロビー公演「事物の暴動」ゲネプロの写真です。

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