誇り高き

きゃべつ畑・窓 設立10周年記念公演無事に終了しました。

すばらしい演技だった。

集中力もプロ並みだった。日頃の稽古の成果をちゃんと発揮できた彼たちに拍手を送ります。

ナレーションをしながら見ていると、彼たちが舞台上でどんどん誇らしくなっていく姿に感銘しました。ego ipseでのATSUSHIがそうだったように。

人間力だね。普通の人間。本来の人間。本来の人間力で充分グレイトなんですよ。わたしたちって。

なぜか、障がい者と言われるかたがたは、ぽれぽれの仲間たちもそうだけど、嫉妬の感情があまりないからうまくいくのだと思う。

うまくやろうとか、どうせわたしはとか、そういう感情がないので、自分ができる範囲で・・・時にそれを大きく飛躍させながら・・・最高の表現ができるのだと。とても≪個≫なんだ。

 

でも、≪個≫があるから連帯できるので、≪個≫がなくての連帯は、連帯ではなくて、なあなあというか、仲良しクラブどまりというか・・・・なかなか迫真の表現にはつながりづらい。

悲しいかな、障がいがない?と、そういうところばかりに気持ちがいって、優越感とか嫉妬とか差別とかが横行する。レッスンに来ていながら注意されたくないとか、誰かよりうまくやりたいとか、他者が主体になってしまうのは障害がない?という奇跡を有効に使っていない気がする。

 

そもそも自分に目が向いていたら、自身の向上のみに集中できるはずだと思う。

 

特に日本人は面倒くさい人種になりつつあるんだと、あらためて世界から見て確認できた。悲しいけど。

社交辞令で、身になりましたとか、有意義だったとかそういう言葉使うけど、何が、どう、身になり、有意義だったのかは答えてくれない。

そいういう言葉は、身体を通した真の信頼関係では必要ない気がする。

合理的ではないのに、無駄がないというのが、今回ノルウェーでも身に染みて感じたこと。

帰ってくれば日本では、合理を求めて無駄ばかり。という実感。

 

日本だから海外だからという話ではないような気がする。

 

きゃべつのみんなをみても、まったく合理的に動けないし、評価を気にしても動けない。

なのに、とても無駄がなく進歩向上していく。ここから学べることはたくさんあると思う。

いったいわたしたちは何をやっているのだろう・・・・と。

障がいがない?方々がそのことに、ふと、気が付くといいなというのが、

ふしぎな友達の趣旨です。そして、常にそれを忘れず、心がけではなく、意思=身体に浸透させること。

 

ふしぎな友達プロジェクトは、障がい者サポートプロジェクトではありません。

 

このたびの、きゃべつミュージカル作品は、これから、いろいろなところを巡業していきます。

ぜひ、目撃してください、そしてわたしたちも、本来の誇りを取り戻しましょう。

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