感動と発見の日々

最近は、人から何かを学ぼうとする人がめっきり少なくなったらしい。

学ぶ。勉強ということではなく、習い事ということでもなく、いわゆる師匠をもつとか、尊敬する人生の師とか、その時々の知りたいことを知ったかぶらずに教えてくれる人とか。

ちょっと検索すれば、表面上は知ることができる便利なご時世。あえて門をたたこうという習慣もなくなりつつあるのではないだろうか。

若いうちに上下関係とか、師匠と言う存在とかと接する機会がないと、既成概念と我流の要塞ができてしまいなかなか学ぼうとしても入ってこないのが現状ではないだろうか。自分の知っていることがすべてだという考えが最近は特にはびこっているらしい。自分を疑うこと(卑下ではない)が出来なくなっているようだ。

 

わたしは、学び癖があるというか(勉強は嫌いだけど)、人から学ぶのが結構好きだ。預言?では、人から学ぼうとしなくていい自然から学ぶ方があなたにはあっていると言われたけど、ついつい人から学んでしまう。年齢に関係なく、真のプロフェッショナルが好きだということもある。わたしにとっての真のプロフェッショナルというのは、やはりロジックがあり、それを観念だけではなく実践している人たちのことだ。

 

今度の新作のあるシーンのところを専門家にアドバイスをいただきに行ってきた。

 

ジャンル違えど本物って趣旨を把握するのが速く、感覚が開けているのだなーとつくづく感銘した。結局モチベーションが髙いと、違う畑のことでも感じることができるのかもしれない。多ジャンルのわたしが素早く習得できるようなポイントをどんどん与えてくれて充実の時間が過ごせた。

 

そして、稽古もしびれたけれど、実は考えられないほどステキなギフト(物ではありません。物以上のモノです。)をいただいていまだ感動さめやらぬ。こんなに情?に熱いのに、ドライでクールなところも素敵だ。情がすでに浄化している情の身体。わたしが考える身体論の見本のような方だった。

 

若いのに魂大人すぎる方でした。

わたしがその方の年齢の時、これほどの余裕と精神力があったかと振り返れば、まったくもって達していなかったなと。

生まれもっての素養もあるのでしょうが、厳しい世界で生きている精神は美しいと思った。訓練の賜物。しかしそれを見せないテクニック。芸が光っている。久しぶりにプロたるプロを見た。

 

身体ってそういう意味でも好きだな。言葉はやはりウソも伴うけど身体はウソつけない。あの美しさは造形だけの問題ではない。

 

さあ、お礼に自分の身体にちゃんと投影しなくては。

作品のどこかにそれが見えてくるかもしれませんのでお楽しみに。

 

そういえば、この度の経験を通して、わたしは初めて《若さ》をうらやましく感じました。いままでは年を取るっていいな。と思っていたのだけど。

動きのパワーが違う。テクニックも生きている。わたしがあの年齢の時に、ここまでの能力とパワーがあったかというとそうでもないな~。うーん。心身ともに鍛えなおしたい!

・・・・・・年相応に(^^)v

 

年相応・・・というよりは能力相応ってところで、クオリティを高めよう。

場数や経験だけ踏んでも上達はしないとわたしは思っている。場数を踏んでもきちんと検証と洞察をしないと技術向上どころか安易な方法を身につけてしまうばかりだ。客観的に捉えるのは必須だと思う。

しかし、この度、場数が上達の糧になっている世界を初めて見た。この言葉はここならばありだと思った。。なんて美しい世界なんだ。羨ましいな。

それはとりもなおさず師匠や先輩たちがちゃんと導いているからなんだ。逃げ道をつくらずに。

ただ場数を踏ませているのではないということがしっかりわかった。仲間とだけでは絶対にできないことだ。わたしが表現の場に仲間を創らないのはやりやすさをプライオリティの上に持っていきたくないからだ。仲良しグループなんて芸には必要ない。

 

なんか、いままで以上にやる気が出てきたぞ!

身体仕様もいつもと少し違います。

 

是非ご来場、目撃してください!

 

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