例えば、3年前にスタートした天竜川を遡りながら年に一回野外で行っている「天の龍 地の川」公演のこと。
自分は、いつもイベントではないイベントを行おうという心があるようで。狙ってはいませんけど。
野外公演と言っても、いわゆるイベントにして安心安全のところで行う誰が見てもわかりやすいモノではなく、
出会いのみがその場と時を決めてくれるような流れの中ででつづけている奇跡。
つづけている!
こんな一見危うい?世間的に見たら無駄?なこと?をやるのがわたしのライフワーク=仕事らしい。
それはとりもなおさず、自分にとっては無駄ではなく、生きるということと同じで必要だからだ。生きるというのは、生き物が生命を授けられたからには全うすべくの宇宙からの仕事だと思っている。これ以外の仕事はそれに付随していることであって、仕事ではないのではないかと思っている。
現実的には、逆転していることがほとんどで、それは仕事という概念が自分とは違うらしいぞと気づくのに時間がかかった。
さりとて、自分にとっての仕事は邪魔や横やりやいじめや権力などに落ち込むことはあれど、揺らぐことなくつづけている。それが生きることであるから。
生きることが仕事のわたし達生命体は、生きることの合間にやることなんてないのではないかと思ったりもする。
戦争や虐待や差別は生きるために必要なことではないしね。
だから、わたしの作品は、ふしぎな友達の仲間たちのダンスとほとんど変わらない。
いまの生をいまの時間を生き抜くことの瞬間の連続なんだ。
そこには、駆け引きも、いらない自己顕示も、権威主義もないのよね。
だからといって、ふらふらとただ楽しくやっているのではなく、そのための努力・・・・つまり、身体のワークだったり、思考の整理だったり、ロジックの組み立てだったりは怠らない。
仲間のみんなが動かない体に対して一生懸命動かそうとする努力を怠らないのと一緒だね。みんなもわたしも孤独と葛藤を抱えて生きているのよ。それが楽しいんだ。
「天の龍 地の川」は、ある私家本のなかの魅力あふれる短編小説が発端だった。
そこからたくさんの妄想がはじまって、気づいたら天竜川の虜になっていた。この小説には天竜川は出てこないのでこれもふしぎなことだけど。
第一回目の公演はその短編を書いていた方のお宅の前の原っぱで行った。
口コミのみでご近所にお声をかけていただき、たくさんの観客が「見たことないモノ」を見に来てくれた。
この地は、東京でよく口にされる「あんたの踊りはみたことないから、よくわからない」「ジャンルに入らない」などという言葉はまったく言われず、
「見たことないモノだからスゴイ」とか「何をやるのかわからないと聞いたので来た」などなど『見たことないモノ』を見に来る観客でひしめき合った。
観客は見たことないモノを見せられ満足し、個々の体験を個々の見たモノと連想し、意味づけせず帰って行った。
理想の観客。素晴らしい地だと思った。
「これこそ本当の野外公演ですね。」とある劇場関係者に報告した時に言われた。
そうなんだ。わたしはいつも『これこそ本来の』とか『本当はあなとのようにそうあるのべきだ』などなど言われることが多い。
それは、うれしい反面、『本当は』なら、なぜみんなやらないのだろうかと疑問に思うのだが。
先日の公演でも理不尽で不条理なことが、たくさんあった。
パラレルワールドをこんなにわかりやすく目の当たりに見たのも初めてだったので、数日間はちょっとショックで立ち直れなかったのだけど、その事象の先にあるものが見えてきた〈いま〉、ふたたび歩き出している次第。
観客にも非常に面白い現象が起こった。報告は感想も含め続々届いている。
前衛身体表現(フィジカルシアター)を行っているわが身としては驚きの、「事実は小説より奇なり」だった。
今日はこのくらいでやめておく。
そうか!!!
この「天の龍 地の川」野外公演に沿って伝えていくと(自分の整理も含め)、とてもわかりやすいかもしれない。
なぜなら、その地その場でめぐり合う事象(人々も含め)が、現実に起こる本質でない事件(大小にかかわらず)と、かなり相反しているので、自覚しやすい。
少し、この路線でまとめていきたいと思う。
読ませていただきました。コメントはinfoの方でお伝えします。なかなかそちらに行けない個人的理由があり、個人のメールでお知らせしたいとおもいます。
お待ちしております。