6月になった。まだ一ヶ月しかたっていないのか!と驚きました。
寺崎 檪さんの路地テアトロソロ公演があって、まだ一ヶ月。
あまり動いていないわたしはいつも時間が止まっているような感じでいるのだけど、しっかりひと月分年を取っているのだ!(;’∀’)
さて、本日檪さんの公演の映像をみて、あらためて身に染みて感じたことを書いておく。
こうやって感動が落ち着いたころに、ゆったりと見てみると、物事の成り立ちがあらためてよく見える。
この舞台が成功したのは、もちろん本人の技量や心意気が大きいのだけれど、
照明、音響、観客、裏方とのリレーションがあってこその成功なんだとしみじみ。
さらには天候や気温や体調(本人も観客も)なども偶然というかその時までわからないこともたくさんありつつなのではあるけれど
なによりもわたしが感じたのは、観客もこの舞台を創っているということ。
とにかく見に来てる。ただただ見るために来ている。
何かを言おうとか評価しようとか、そういうのではなく、シンプルに見に来ている。過大評価も過小評価もなく、そもそも評価なんて存在しなくて、この公演を見たいから見に来ている。
何が実際に行われるのかはみんなわからなかったと思うし、既成概念でイメージしてくることもさほどなく、ただ見に来て、そこで行われることに自然に乗っかって(参加型ではない)、場を作ってくれている。
過剰の愛の場ではなく、いいことしてますでもなく、ちゃーんと等身大で見ている。観客を全うしている。
これこそ本当の愛だけど。
そして、裏方をお見事に務めた親御さんとヘルパーさんも、過保護な愛ではなく、シビアな目線で本人がちゃんと本人の力でできることをただただ信頼しつつ、裏方としてできることだけに専念して仕事を全うしている。
当日照明してくれたDEEP UNITも、そのために機材を貸してくれた人も無意識のなかでこの空間を創り上げている。
この場で行われることに淡々とそれでいてこれ以上はできないほどに全身全霊で。
目的の矛先が入れ替わってしまう本末転倒なことばかりが社会の習慣になっていて、それに気づかないまま動いている世の中・・・いつの世も人間だけはそうなる( ;∀;)・・・で、気づいてないから悪気もなくて(;’∀’)(悪気アリもいるけどそれはわたしたちには関係ないので、ひとまず置いておく)
この日は自然の成り行きでちゃーんと場が達成された。生身のあつまりだから、機械のようにはいかないし、いってもおかしいし、いこうともしていないけれど、目的だけは失いたくないというのが、路地テアトロで行われることなんだ。
しがらみや見栄のない本当の世界で生きることは無理なのか?本当の自意識で生きることは無理なのか?
可能だと思う。
そんな思いもあった路地テアトロオープンの意思。
当然ながら映像に観客は写っていないけれど、主役の檪さん含め、無意識の空間(無自覚ではなく)が出来上がっている。いや、無意識だから、自然に彼女も能力を発揮できたのだと思う。
やはり、路地は、路地のスタンスは、これでいいんだと実感。
とにかくシンプルにそれだけ。ということがどれだけ大事で大きなことで、だからそこに奇跡的偶然を呼び起こすのだということもわかった。
ひとは、既成概念におさまっているものを見ると安心するようだけど、それでは芸術は成り立たない。
特に身体は、概念こそが敵?というか身体を身体らしくできなくさせてしまう要素だから。
ボーンメソッドやダンスと一緒。
なぜ路地なのか・・・・
いまめちゃ面白い場になっている。
あまりに、地味すぎてあまり知られていなくて、だからこそ小説より奇なりなことが普通に起こる。素敵に。
まるで、地元の人しか来ない代々伝えられている神事(祭り)のようだ。
天の龍 地の川 も 路地テアトロも同じ龍の道。
これからもよろしくお願いいたします。
6月は月例ライヴ
7月はひびきみかソロ
そして、9月ごろ?また違う弟子たちが路地で初公演する予定。
催しごとに観客が違うのも面白い。先月のひびきソロと翌日の月例ライヴも全く違う観客の顔ぶれ!
いろいろな方々が出入りしてくれるようになり、龍の道も喜んでいます。
今後ともよろしくお願いいたします。
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