知人からの情報で心のアート展に行ってきた。
東京都内の精神科病院に入院・通院している方々の作品を対象とした公募展ということでした。
わたし自身も様々な障がい者とダンスを通して日々過ごしている。
障がい者を取り巻く人々がもっと身体からの視点で彼たちを感じてほしいなという気持ちで活動している。
身体から見ていくと、専門的な観点とはまた違う発見がある。医師や介助者を驚かせることもたくさんある。たかがダンスと言われながらもされどダンスでたくさんのミラクルを表出してきた。
足を運んで本当によかった。出不精のわたしがヨイショと重い腰を持ち上げたのには、宇宙の采配もあったようだ。
覚書
●ギャラリートークで・・・作者が自ら作品を前に話す。これが単刀直入で小気味よかった。しゃべりすぎることもなく、説明しすぎもなく客観視がとても優れていた。理屈っぽくなくていい!まさに身体だ!
●座談会・・・いわゆるアフタートークみたいなもの・・・当事者の語りは、熱いものを携えながらも短く端的。障がい者を支える方々のトークもスッキリ爽やかで理解しやすかった。否定や肯定もなく批評まがいの感想もない。理解しようという無理な偽善もない。
●座談会の始まりで、当事者が詩の朗読をした・・・とても聞きやすい。言葉が入ってくる。詩もとてもいい。詩は別な当事者が書いたものだった。響いてくる。演奏も加減がいい。
《加減》ってなんだろうと思った。塩梅がいいのだ。
感情移入が必要以上になく、聞かせようという傲慢さがないので、いやらしくない。
見解
●この展示の表現者たちは、精神科病院に入院・通院している方ということだが、非常に客観が優れていた。
●内側を向いているからだと思った。自己とイヤになるほど向かい合って向かい合って結果外に表出されたもので、最初から外を意識したものではない。みてみてサギじゃない。
彼らを置き去りにしてきた社会はどうだろう・・・
表現の世界はどうだろう・・・
イヤになるほど自己に目を向けているだろうか。客観視が疎かになってはいないだろうか。
自分はどうか・・・わたしは内向するばかり。客観的分裂。創造は楽しい。単独なので、時に恐ろしいけど。
(ちょっと横道それて・・・時に恐ろしい?・・・そんな時。決まって「老人と海」や「河童」を思い出す。事実なのに目撃者がいないので事物を証明できない。)
彼らの絵には壮大な宇宙があった。内なる宇宙が見事に表出されていた。
特に朗読は感情に流されていない。酔っていない。押しつけ波動がない。まるでプロだ。意図して無意識レベルを表出できたのならプロ中のプロだ。
社会に必要な人たちだと思った。
でも・・・
社会システムはアイデンティティーを排除している。知らず知らずに変な方向に向いている。自分は違うといいながら大きな船に乗っている。権威主義はあちこちそここに。
小舟にゆられるわたし・・・
それにしても
あるべき自意識のみちゃんとあるきゃべつやぽれぽれの仲間が表現する時と同じように感じた。
サイコロジーを使わない表現はやはり大事。
表現が身体や精神にいいのは自分を客観視できるからだ。
もう一人の自分。
一人どころではない。
宇宙としての自分。
わたしたちがしっかりしないと。
彼たちの叫びが、聞こえなくなってしまうのではないだろうか。もはや耳を傾けてさえいないかもしれない。
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