自分が創る作品の意味?(内容の意味みたいなもの)は、自分自身は本番終わるまで全く不明だ。
それが興味の一つでもある。自分も一観客だったりする。自分を見ている観客なのか、観客を見ている自分なのか。
有機なはずの身体を無機に使うことで出てくる意味(のようなもの)に興味がある。
だけど、興味があるからと言って創作途中に詮索するとそれはもう予定調和的な・・・意味ですらない・・・ものになる。
観客が当日つける意味も時に興味深い。
一番興味深いのは感想だけど。意味づけない感想にはかなりインスパイアされる。
批評に似た感想ってのもあるけど、意味づけない感想を書ける人はスゴイと思う。
一方、批評欄に詩的な感想を書いてくださる方もいて、そんな時はその詩にインスパイアされてまた新しい作品の糧になったりすることもある。
これが芸術の連鎖だと思っている。見る側とやる側と。
自分自身はストーリーのような時系列を追うことはない。
再演嫌いなわたしの一つの理由は・・・
再演すればするほど、日ごろの稽古日数がトータルでいうと加算されて行くわけで・・・初演時の稽古+再演時の稽古+再々演時の稽古・・・非常に危険が伴う( ;∀;)
どういう危険かというと、別な意味が生れるキケン。
本番終了後に生まれた意味に、さらに意味が湧き出てくるというわけ。
で、全く違う意味になるというわけ。
だから、意味づけして創らないことが大切となる。
最初に意味づけしたらこういう振り幅まはったく起こらないだろう。
ただおさらいするだけみたいな・・・発表会的な(^-^;
公演は発表会とは違う。
でも、一寸した演者の隙で瞬時に発表会になってしまうことがある。これが表現者でない方々に公演をしてもらう時のリスクでもある。時にプロでもアブナイ。
檪ちゃんやきゃべつのみんなは見事にこのリスクをクリアした。これには感動だ。
話しを戻すと、
稽古中にどんどん動作の意味?みたいなものがやってきて、わたしがしている動作に役の人生がつくられていくという二重構造になっている今日この頃。動きながらいろいろなモノが見えてくる。その役(人とは限らないしモノとも限らない役)の気持ち?的なものもやってくる。
わたしの身体はそれでもひたすら無機的だ。
で、共演者がいる場合、イメージから入れる天才(めったにいない。たいていはイメージ倒れ)が相手だと、身体から生まれた意味を先に説明してそこから意味不明になるプロセスをたどることもできる。いまやってる稽古はそんな感じ。この出会いは希有かも!
わたしにとっても相手にとっても初体験の創造。この件は後日。
「No Exit」再演に向けての稽古は、事象のシンクロをも含んで肥大している。なぜか再々演の稽古になったりもする。
もちろん同じ作品だけど、こういう事象?が起こる。どういう事象か・・・まだ再演も終わってないのにね(^_-)-☆
この辺はおいおいお伝えします。興味があれば(^_-)-☆
そして、もうひとつの作品・・・来年みなさんにお披露目することになるであろう新作・・・の稽古も並行して行っていることで、
過去の作品やいまの作品や未来の作品がシンクロしていく醍醐味を稽古で味わっている。これはスゴイ!
いま何をやっているのかわからなくなる時が!?
稽古をすることがなぜ大切なのか。稽古時間を何よりも優先することをしてきたことの意味(!)が顕わになっていく不思議。
こういった創作のプロセスにおける神秘が当日の観客のエネルギーと交わってまた新しい出来事となる。芸術の連鎖☆
しかし!!このこと全部含めて意味はないのである。
なぜなら、
意味は概念だから☆
ではまた(^_-)-☆
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