身体と音、身体と音楽

キューバLatinのように音楽をパートナーとして、時にライバルとして踊る場合と、

音楽を音を美術や衣装、空間として踊る場合がある。

Latinは、その両方を踏まえていないと踊れない。舞踏とLatinがわたしにとって非常に近いことの理由の一つがそれだ。音楽と空間は踊りでもある。

しかし、音を効果のある産物、身体の助けになるような役割で使うことはない。

 

7月のシアターχでのバリバリLatinが舞踏に見えた人が数名いてとても驚いた。
わたしが、20年前に発見してやり続けたことがいろいろな要素が偶然?一体化して響き渡ったのかもしれない。

 

毎日毎日身体のことを踊りのことをあれこれ考えたり(動かしながら)、実験したり。
身体が思いもよらない動作をするときを捉まえるべく、稽古している。
誰もいないことが条件で、人の気配がない場所がベスト。路地テアトロは最高の場に位置している。

初めて公演を見に来た外国の演出家と表現者もそのようなことをここ路地で言っていた。

 

音楽と身体・・・それは、何百回も何千回も聞いたことがある音楽でも何百回も何千回も踊ったことがある振り付けを踊っていても起こる。

稽古はほとんどを無言で過ごして無音で踊ることが多いのだけど、それでもやたら真新しい発見がある。
日々生ものとして生きている。昨日と同じことをすると生さ加減が良くわかるときもある。

予告なしに新しい動きがダンスが始まることもある。

ボーンメソッド然り。生なんだ。変わらないために変わりつづけている。

 

カリキュラム好きには理解できないかもしれないけれど、
このことだって、れっきとした決まりでもあり、アンダーコントロールでもある。

そういう意味で身体はふしぎ。

即興なのに決まっていて、決まっているのにほとんどがフリーである。

 

そういうことをなかなか他者と共有できないけれど、いろいろ試みては来た。出会いもあった。

グルソムヘテンとの出会いもまた、メソッドの共鳴が出会いの発端だった。
faceの相方も然り。全く違うのに同じなんだ。

 

さて、

8年前に何が起こったのか。

いまは、奇跡の感動に舞い上がる日はとうに過ぎている。

だからこそできる、生と生のぶつかり合い。

きっと生であることさえ、忘れてしまうほどの何かが生まれる予感。

 

9月はこの再演というより新しい生と生の誕生になると思う。

 

 

 

 

 

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