あの杖のダンスについて。今年の夏にシアターχのフェスティバルで急遽踊らせていただいたうちの1曲。
キューバ神をモチーフにしてはいたけれど、要はコール&レスポンスを駆使したSalsaを踊りました。得意のguaguancoではなくね。
コール&レスポンス。
これは、単に音楽における掛け合いというわけでもない。深く追求するときりがない。
あの踊りは杖を持って踊るダンスではなく、杖とのコラボレーションであった。
Latin曲では当たり前に演奏されているコール&レスポンスだけど、踊りとなるとまた違う課題が帯びてくる。間への追究は果てしない。まあ、音楽も演者の身体だけど。
そもそも「間」への追究から「間」のほうが広い裏側の?世界に入ってしまって、身体表現者に転身したのだから。それくらい奥深い。奈落・・・いや深淵。
さて、今夏の稽古では、いままで以上にコール&レスポンスを追及してみた。久しぶりにLatinを純粋に追究したら少し成長(上達?している自分にも会えた。ナンて言っても杖がお相手なので手ごわい。人間よりも手ごわいかも。
杖自身が、深い解釈で動くので、安易にやり取りできない。
人間とでも本当は安易に掛け合いできないのだけど、それは相手のモチベーションにもよるという運命がある。杖とだと合わせ鏡のごとく意思を表してくるので侮れない。ひとのほうが動きが読めるかも。。
さらに、この時はLatinダンスとしての参加だったので、あくまで音楽的には正当な駆け引きを表現しつつ、身体的にはかなり前衛的なノリでという二重構造だった。
だから「舞踏」に見えたという観客の感想にもうなずけた。鋭い鑑賞力に感謝。身体性として見てくれたのだと思う。
Latinダンスに情緒を入れると(音楽は時に情緒的だけど)、まったく音のバイブレーションに追いつけなくなる。
ここが、Latinもメタフィジカルだとわたしがいう所以。
さて、音楽という束縛があると自由に踊れるが先月の公演「湧出の途」では、Latin曲を使わずに杖と踊ったので、音楽的に自由であるがゆえにかなりの枷があった。
この二つは同じようで違って、違うようで同じなんだけど、実はこの二つのひずみに存在している何か・・・・一番近い表現は「間」または「空間」、もっと大げさに言えば「存在」かな。
そのひずみが醍醐味になってくる。ひずみは演者には観客と違う見え方で浮き出て見える。これが「湧出」という言語の意図するところかもしれない。
自由と不自由の関係は誤解が多いようだけど、ダンスは自由に踊れば踊るほど不自由に踊っているのを見受けることが多い。時に身体置いてきぼりで泣いていたり、退屈している。
だから、わたしはかなりの枷をそこら中にちりばめて自由に踊る。
この不自由は驚くくらい自由だ!(なんか表現がヘンだね)
枷があるほど自由だということ。ものすごい即興性。本番しか見えない途が湧き出る。リハとゲネと本番全く違う途!
条件?はそれが見える身体波動を維持すること。これは結構難しいし、ストイックで、ナーバスになる。移動性の身体波動だから形状記憶ではない。そのバイブレーションの質を保つことが必要だから。
!!!!ははーん。そういうわけだったのか!
「湧出の途」とは!
時折こうやって(いつもでもいい)、Latinに身をうずめることも大事だと思った。何万回も何億回も聞いた曲や踊った曲でも、まったく違って聞こえることがある。
それは身体が生であることを自覚できてないと気づきにくい。
あたりまえのことを飽きずに(むしろその方が飽きない)できる自分でよかった。
Nothing Happen Nothing Change・・・おっ!!
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