ボーンメソッドとは何か・・・

みなさんが日ごろ・・・仕事や愛する人たち(お子さんや伴侶や親御さんなど)、あるいは思いを寄せているモノやコト、自然、趣味、ライフワーク(天職)etc.・・・一日24時間一年365日明けても暮れても考えたり感じたりできるコト。

わたしもみなさんと変わらず、そういうモノがあります。
踊りであり身体の不思議であり、創造のプロセスとしての妄想。
きょうはその中に含まれるうちのひとつ〈ボーンメソッド〉についてあらためて考えてみることにしました。
テクニカルな話はしません。テクニックは生身の身体無しでは説明できないので。

 

〈骨〉意識が突如宿ったのはプロになって間もなくだから35年ほど前。
以来ずっと響いているということは、何か確たるわたしの中の深淵に呼応したのだと思う。
誰にでもあるこういった瞬間を逃さないのも大事かも。
その時は別に〈運命〉を感じていたわけではないけど、スゴク奥深いところに響いた体感は覚えている。

「これだ!」みたいな感じ。

別に体系化しなくても良かったのだけど、結構喜ばれたので、「自分のためが他者のためになる」という真理に基づいて生きているので体系化してみた。かれこれ20年ほどになる。

年月が経てば経つほど新しい発見があるのでワークもずいぶん変わってきた。
理念は全く変わってない(変わったら理念とは言わない)けど、如何に伝えるかという技術はやはり経験と洞察がモノを言う。

簡単にうわべだけなぞって教えちゃう人もいるし、資格さえあれば良いという人もいるけれど、洞察に敵うものは無いと思う。

 

好きなこと、つまり興味があることに関してはみなさんも凄い洞察をしていると思う。
わたしも然り。

10年ほど前、知人が「自分は24時間明けても暮れても芸術の事だけを考える勇気がなかったので、夢を諦め生活のために好きなことを生かした安定した仕事に就いた」と言っていた。

その時は「そういうモノか。わたしは24時間明けても暮れても踊りの事しか考えてないしそれしかできないな~。」と思ったものだが、今考えれば、その方のいう〈次に好きなこと〉が実は一番好きなことだったのではないかと思える。

生活のためと言ってたけど、わたしも生活のために踊っている。好きなことは生活のため生きるためにある。時折人々が言う(特に日本)〈生活〉って意味がわからなくなるけど。。

 

〈諦める〉というとネガティブな審判が頻繁にみられるけど、そうなのかな~。

例えば好きなことを続けている中でも諦めることはたくさんある、辛いことも悩んじゃうこともたくさんある。
好きだからって、いい思いだけするわけじゃない。でもその諦めはネガティブな諦め(卑下ともいうかな)とちょっと違う。

 

さて、

ボーンメソッドは、〈ボーン〉よりも〈メソッド〉の方が重要であって、「ボーンやってます」は、〈メソッド〉抜きのボーンであって表面的なことだと思う。それでも楽になるなら良いね。
ボーンメソッドは表面的に体が楽になる軽くなるためのメソッドではない。

知らず知らずに効果を得ている方もいらっしゃるけど、メソッドに目を向けたらもっと効果は出る。

それは主宰者であるわたしが一番伝えようと思っていたところだから。

ちなみにボーンは舞踏でも何でもないですよ。ボーンは舞踏だからなんて言われちゃうとわたしは混乱しちゃいます。。へ理屈はやめましょう・・・

 

何事も哲学が大事。哲学は経験や体験、体感を洞察して論考をたてて初めて出来上がるのかも。
いまこそステレオタイプから脱却してほしいです。

誰か(たいていはメディア情報)が言ってたからというのは非常に危険。

 

自分を信じるためには客観と洞察。思いこみや欺瞞、卑下からの脱却が必要。

それが、ボーンメソッドの〈メソッド〉部分かな。
これが欠けるとボーンも怪しくなる。。

深いですね~とか言わないでくださいよ(汗)一番嫌いな言葉です。。
普通の事です。深くもなんともありません。

真理はその辺にたくさん転がっています。溢れています。
普通の中にしか存在してません。普通はいけないことなのでしょうか。

だから好きなことって特別なことではなく、普通の事を飽きもせずずっとやれることなんですよね。
わたしもさして珍しいことは何もしてません。

 

円環モードに入っているので、 グルグルしてます。(@_@)
ではまた。

あ!!明日のレクチャーパフォーマンスにてお会いしましょう☆彡

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