ふしぎな友達プロジェクトにおける、障がい者との活動を一方的だと言われたことがある。
果たしてそうだろうか。
その時の彼たちの表情を見たことがあるのだろうか。
参加したことがないのだから、見たことはないだろう。
けさ、FBでステキな記事に出会い、いろいろ思った。
倉本聰氏のインタビュー記事をうけて、知人が下記の言葉を引用していた。
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
〜ホセ・ムヒカ
わたしの体験から行くと、
「お金がどんどん減りそうで怖い」って、お金を十分持っている人に言われたことがあった。
そういうひとは、ある程度お金でやり取りしても、「やってやったやってやった。」という。
ヤバいなと思って、気を付けていたけど、やっぱり「やってやったやってやった」と言われている。
何も返していないといいたいのだろうか。何を返せば満足するのだろうか。
価値は人それぞれ違うのだろうけど、人のためではなく、≪自分のため≫にいろいろやって、それが結果≪人のため≫になるような生き方をしていると、「やってやった」という感覚はなくなり、「やってやった」という感覚を持つことをやった自分の選択が本来の自分の選択でなかったと気づくはず。
わたし自身、ボランティア活動もたくさんしているけど、「人のため」にはやらないと決めている。
自分が身体の奥底から、ワクワクすることをやる。
それがボランティアだろうが、ビジネスだろうが、創造だろうが・・・すべてにおいてそうするようにしている。
それが結果的に、ほかの方から喜ばれたとき、それはきっと「ひとのため」にやったときより、うれしさが増す。
そして、「自分のため」にやったことだから、お仕着せもなければ、お返しもほしいとは思はない。
このことは、わたしにははっきりと見えることだから、迷いはないけれど、
「意識」や「思考」の領域のことは見えない人も多いから、
趣旨にのっとってボランティアを選択してやったことを、趣旨から離れて利用されてしまって「もっともっと」と求めらることもある。
そういう時は、「人のため」がプライオリティだと、イヤイヤでも受けてしまい、不満が増していくのだろうが、
わたしは、そういうのは断ることにしている。ボランティアではできない。
ビジネスではできるだろうか?
自分が良しとしていないことに、お金を積まれてもできないかもしれない。
自分には自分しかできないことがあって、それはとても価値があると思っているけれど、
自分以外の人にもできることであれば、さほど必要性を感じない。
倉本さんが、縄文時代のきわめて素朴な経済社会を取り上げていたけど、
ある意味で、これはわたしが好きなミヒャエル・エンデが晩年に注いだ活動にも言えることだ。
そんなことも全部ひっくるめて、最近痛切に思うことは、
インタビュー記事のタイトルにもあるように、
人生は短いとわたしは思っているので、自意識や欲や嫉妬で生きるより、
やはり、ありのままの自分で生きるほうが、良いような気がしている。
残すことよりも、生ききることだと思っている。
生ききれば、残したいものは残るのではないだろうか。
最近はまっている、ある文学を読んでいても痛切に感じる。
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