どこでもいい、なにもない空間―それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。
ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる―演劇行為が成り立つには、これで足りるはずだ。
ところが・・・
という感じでピーター・ブルック著「なにもない空間」は始まり、退廃演劇、神聖演劇・野生演劇・直接演劇とそれぞれの演劇について語られていく大好きな著作のひとつだが、
わたしは今回この言葉の後に全く違う話を続けていこうと思う。
無観客公演を2度終えて、ちょっとわかったことがある。
観客がいる公演といない公演では<余韻>がちがうようだ。
どっちがいいとか悪いとかではなく、違うということ。
これは、興味深い。やってみなければわからなかったことだ。
プロセスやプレッシャーという意味ではあまり大差はないのだが、公演後の余韻が違う!
今更だけど、生きている物質はいろいろなものを発露(で良いかな。まあ、わかりやすくいこう。)している。
発露というと、心の中にあるものが現れるというけれど、言葉がないのでそれは波動として現れるから、わたしにとってはひとつの身体現象だと思う。観客の身体現象!
それは空間を彷徨うし浮遊する。
いつもは観客ありの公演なので、これを感じるのも一つの楽しみだった。
人間以外の波動も、もちろん感じるけれど、今回の話のポイントは<余韻>についてなので。
さて、それが演者にとってどういう影響を及ぼすのか。
いつだって公演が終わると身体が軽くなり、またすぐに踊りたくなる。
だけど、精神の方は、ちょっとボーっとしたいと思っている。とりあえず達成したのだから、少しくらい休もうみたいな。身体は「ねー踊ろうよ~♪」とうるさいけれど(爆)
観客がいる公演では、この精神的な高揚が少しの間続く。内容や出来栄えと関係あるようでそうでもない。
一方無観客公演では、この高揚がなく、うまくいった喜びや達成感は生まれるけれど、精神的な高揚はさほど生まれない。観客がいる公演でも苦労が多ければ多いほど達成感もあるので、この点は変わらない。とすると、やはり出来栄え以外の理由による高揚の違いかもしれないと自分の心身を掘り下げてみて感じた。
高揚感がちがえば、公演後の余韻も違う。
余韻に浸ったりすることはないけれど、なんというか身体の残響が違うというか・・・・
このそれぞれの残響部分を膨らませて作品を創ってみたいかも!
ということで、9月から観客動員しての公演となるので、<余韻>も楽しみだ(^_-)-☆
なにより大切なのは、生の身体表現は生で見ていただくのが一番ということ。
わたし的にはレッスン然りですな。オンラインでは型をなぞるだけで波動調整までは至らない。
見えないものは重要視されないけれど、これは見えないのか?と思いきや、意外に見えるものなんだがな~と(^_-)-☆
路地テアトロ存続に命懸けなのは、この生の身体を生きている時に実感してほしいから。
形や振り付けやワークの種類では埋められない、身体の存在意義。
身体=あなた自身、わたし自身。
なんだか、楽しくなってきた☆彡
Clara Paixao Reunion
※8月公演の再演という意味ではありません。
心よりお待ちしております。
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