行き来の旅

表現の仕事は、いまあるこの肉体の経歴だけではなく、もっとずっと前の魂の記憶や自分だけではない場の記憶や時の記憶を表出するところにある。

先日、faceの相方のライヴを見に行って、表現者ってなんだろう。なんのために舞台に上がるのだろうと、いつも思っていることなのに、素敵に歌う彼女を見ながらあらためて思いを巡らせていた。

日本では芸術が不要不急の扱いを受けているけれど、果たしてホントに不要不急なのだろうか・・・

魂の交流は、観客が背負っている過去の魂とも行われている。

前衛表現では特にテーマ自体がそれなので、行き来を感じる。

そういえば最近見た玉三郎さんのドキュメンタリーでも同じようなことをおっしゃってたな。

感じる。ということかな。

 

昨年の「湧出の途」では、いままでの作品以上にそれを感じた。理由はたくさんある。そうなって当たり前の流れのなかでの公演だったから。

いままでも、いま肉体の無い魂をテーマに過去に現存したひとや、小説のなかの人物やもっと古い土着の神々のことなど表出してきた。

自分自身の思い込みで創り始めているのかもしれないけれど、形作られて来るころには自分自身はいないというか、もうすっかりわたしの代わりに表現しているモノがある。

もちろん肉体は物質でわたしのものだから、稽古によって技術によって訓練によって、過去と現在を時に未来を繋げていく。

そういっても、すべてが終わってから・・・終演後にわたしも詳しく知ることになるのだけれど。

 

当日は観客ひとりひとりの魂の歴史も混ざってくるのでね。

答え?は本番にしかわからない。

なので、芸術を表現活動を不要不急としてしまうと、人類そのものを否定しているような、生きてきた過去の魂たちをも否定しているような、そんな気になってくる。

そしていまある誰の身体もバイブレーションをもっていて、なにかしら発信している。

だから身体ワークを進めて来た。自分のために創ったワークだったのだけどね。

 

いまの身体は物質だから、せめて自身の身体は不要不急とは思わないといいのだけれど。

 

 

YouTubeアカウント出来ましたので最近のパフォーマンスが少し見れます。是非チャンネル登録をお願いいたします。肉体の意味?身体の意味?が映像を通しても感じられるかもしれません。

が!やはり生には敵いません。次回公演も是非見に来てください。まもなく詳細アップ致します。

まずは、レクチャーパフォーマンスにてお会いしましょう!

 

 

 

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