体験しただけじゃ何にもならず(場数踏んでも何にもならないのと同じ)、その体験を洞察し、さらに分析することで、はじめて体験が生きてくる。
とはいえ、体験しなきゃ始まらないのも確か。
しかし、洞察と分析は、言葉だけではまたこれも危ない。そして、他者にゆだねるのはもっと危ない。
自己によって、その洞察と分析ができた時、それはとっても残酷な行為であるがゆえに、次への道しるべにナル。
また、洞察は創作前にも出来る。というか創作前の洞察が要となる。稽古とは肉体で観察するもっとも高貴な行為だ。身体も当然そこにある。
緊張と集中を強いられる空間を、自分自身で創れるかというところもポインドだ。
舞台は断崖絶壁だ。そこに立つ勇気は、心意気だけでは空回りするだけで何も生まれない。
わたしにとっての残酷演劇(アントナン・アルトー)とは、こういった行為による自然(ネイチャー・・・宇宙のようなもの)の残酷さを語っていると実感する。
凱旋公演という機会はこの上なく残酷なものを生み出した。
人々は、笑いながら恐怖を覚えたようだ。
さてさて、
足利での公演を終えたら、いよいよ次はLiveです(^_-)-☆
ひびき舞台の謎に迫る?!
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