踊り手として、しかもいわゆる「ダンス」という概念で捉えられている踊りではなく、舞踏のように精神性が高く、なおかつイデオロギーというべきか思想というべきか・・・まあ言葉はさておき・・・・深い洞察のもと展開される身体性の高いパフォーマンスを日々目指している。それはLATINを踊る時でもそうであるし、レッスンをするとしたら、そういう前提でしかできないし、そうしている。
ぽれぽれやきゃべつの講座だってその上に成り立っている。彼たちは趣旨を言葉以外の何で受け取っているのだろう。
あの能力が、わたしは欲しい!
意識の欠落は身体表現にとってはマイナスである。
しかしながら、意識や思想とは及びもつかない、乏しい空論によって身体表現を扱うことは、机上の空論どころか、空論にもならぬ思い込みで、身体は萎えるばかりだ。
表現者・・・さしあたって踊り手の場合、思想はどのように生まれるのだろう。
自分の内なる泉からしかありえない。
誰かの受け売りでは思想なんて生まれない。
やはり、あの、地道で地味な自主稽古しかないだろうと思う。
あの時間は、孤独なのだろうか・・・・ 退屈なのだろうか・・・・・
わたしは満ち溢れている。至福の時だ。
昨今では、少しの時間も、あの文明の機器(危機)を手放せない輩が増えているれど、
電車に乗っている時間さえ、内観できないのであれば、
自主稽古なんて、退屈でできないだろうな。と思う。
内観においては
《何も用事の無い日》 または時間でもよいのだけど。
というのを、どれだけ作れるかにかかっているような気がするけれど
何かしら予定を入れないと不安で仕方がないというひとが多いのではないだろうか。
さて、
尊敬する師の教えを自分の中で消化するためには、自主稽古しかない。
また、誰かから学ぶ場合は、尊敬無しでは学べない。
これで良いというのがないのが芸術であるから、
自分だけを信じる段階にいくまでは、尊敬する他者の一挙手一投足、言葉・・・・を受け止め、噛み砕き、体現するしかない。
わたしは、師に対して質問攻めだった。こまった弟子だったろうか。
自分だけを信じる段階といっても、
誰を師とするか、師の何をどう受け止めるか、それをどう稽古するかは、自分しかいないのだから、
すでに、自分を信じる行為はスタートしているはずだ。
日本人はアイデンティティがない人が多いので、
自分から率先して、問題定義をすることができない場合が多い。
《問題集》がすでにある、教育を受けているからね。
わたし自身は、良き師に恵まれ、また貪欲さも相まって、様々なことを吸収してきた。
何かから学ぶクセ?が出来上がっているので、
文学からでも身体性を受け取れる。
きのうは、全日本前で来日している、わが師Lorraineと久しぶりに二人で食事をした。
ダンスについて、LATINについて多くを語った。
ひとについて、人生について、アートなマインドについて語った。
そしていつものとおり、naughty でfunnyなわたしたちは、別れ際まで、笑い転げて道行く人を驚かせた。
師でありソウルメイトでもある。
こういう関係性は、しばらく会っていなくても壊れることはない。疑う余地もない。信頼が変わることなどあり得ない。
《つきあい》で成り立っている仲ではないのだ。
「あなたから学んだことはいまのわたしの活動にも生きている」と伝えた。
写真は、いまだわたしの心をつかんで離さないノルウェーのグルソムヘテン劇団
のあの身体性の高い公演に行ったときのもの。
自分の芸術の方向性が確信に至るというのはなかなかな出会いだった。
何をfirst priorityに置いているかということがここまで自分に近いとは!
お蔭で自分の芸術の方向性がハッキリと見えてきた。いままもブレてはいないが、若干振り回される甘さがあったので、
ここで、もう一度確認確信できてうれしかった。
劇団との集合写真、とまさかの即興余興・・・・重かっただろうな(^^ゞ
しかも指靴下。。。イケてないわね(笑) 磨きなおします(^-^;
久しぶりのノルウェー語懐かしかった~~~♪
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